新型コロナ雑感②:「可視化」と「未知」がもたらす恐怖
新型コロナについて、「正しく怖がる」ことが重要だと様々な場面で言われており、その通りだと思うのですが、我々は果たして正しく怖がることができているのでしょうか?
今日は、「可視化」と「未知」をキーワードに、新型コロナの怖さについて考えてみたいと思います。
対象が「可視化」されることによって、はじめて「怖い」という感情が湧きあがってくることがあります。知らなければ怖がる必要がなかったのに、知ってしまったがために怖くなってしまうことってありますよね。
今回、新型コロナは、中国湖北省周辺から徐々に感染が拡大し、飛行機や船で移動する人たちによって日本や韓国などの近隣に伝播し、しまいには世界各国に蔓延しました。マスメディアが各国の感染者数を報じ、屋形船やライブハウスなど身近な場所での感染拡大の様子が具体的に「可視化」されました。新型コロナウイルス自体は目に見えませんが、感染状況の「可視化」により、人々の恐怖心は高まりました。
一方、インフルエンザや肺炎は、毎年のように数千人単位で死者がでています。けれども、感染経路はほとんど明らかになっていませんし、毎年のことなのでニュースで取り上げられることも多くありません。インフルエンザや風邪が蔓延するということは、実際には毎年どこかでクラスター感染や院内感染が発生しているのでしょう。けれども、感染拡大のプロセスが可視化されないので、我々は気づかず、気づかないので恐怖も抱かずに日常生活を送ってきたということです。
つまり、我々の「怖い」という感情は、どのような情報に接するかによって大きく左右されているということです。情報の偏りにより、不当に怖がらされているかもしれません。また、本当に怖がるべきものが「可視化」されていない可能性にも思いをはせる必要があるかもしれません。
次に、「未知」についてです。「可視化」の話とは逆説的ですが、対象が「未知」であるほど、人は「怖い」と感じるようです。暗がりを怖がったり、お化けや宇宙人を怖いと感じるのも、それがよくわからない「未知」のものだからです。
そもそもウイルス自体、謎が多い生物(?)ですし、新型コロナもわからないことが多いのはその通りでしょう。感染経路が「可視化」されたといっても、判明している感染者は恐らく一部でしかないので、市中にいるはずの「隠れ感染者」や「無症状感染者」という「未知」の存在が、人々の恐怖心を増幅している面もあると思います。
ただし、新型コロナウイルスについてわかっていないことは、これまでのウイルスについても同様にわかっていないことがほとんどです。例えば、突然変異の可能性についてよく取り上げられていますが、既知のインフルエンザやウイルス性の風邪にも同様のリスクがあるはずです。新型コロナウイルスだけをとりあげて「未知」を強調するのはバランスが悪いように感じます。
他のウイルスと比較しつつ、新型コロナウイルスのなにが「未知」でなにが「既知」なのか、もう少し整理する必要があると思います。
「正しく怖がる」ことは、ことのほか難しいですが、「可視化」と「未知」が「恐怖」を生み出すプロセスについて、情報の送り手と受け手の双方が、もう少し自覚的になることで、「正しく怖がる」に近づけるような気がします。